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秋田県支部について

日本赤十字社の創立者 佐野常民

日本赤十字社の創立者、佐野常民は、文政5年(1822年)12月28日、佐賀藩早津江で同藩の会計方、下村充 の五男として生まれました。11歳の時親類の藩医、佐野常徴の養子となり、藩主から栄寿の名をもらいました。

常民は、まず医学を修めましたが、のちに藩公の内命を受けて京都の広瀬元恭、大阪の緒形洪庵、江戸の伊東玄朴らについて蘭学、化学を修めました。特にシーボルトの高弟玄朴の塾では、塾頭として代講をつとめました。30歳のとき、藩に戻り、精錬方に命ぜられたのです。ここで、常民は、医業を放棄、名を栄寿左衛門と改め、航海、造艦、射砲の技術を学ぶのです。灯台の建設にも力を注ぎ、犬吠埼、潮岬などの灯台は常民の発案によるものです。

このような佐野常民と、赤十字との出会いは、慶応3年(1867年)、パリの万国博でのことです。佐賀藩主鍋島閑叟の命で博覧会事務局長として乗り込んだ常民の目をとらえたのが、赤十字マークのついた軍人救護会の出品でした。

救急用馬車,タンカ、医療箱などで、これを契機に第1回赤十字総会がパリで開かれ,17ヶ国が集まっていることを常民は聞かされたのです。

さらに明治6年(1873年)、常民は新政府の代表としてウィーン博覧会にも赴く。ここで赤十字の出品物が一層増え,内容も充実していることに驚きました。これら博覧会での見聞が、後年の博愛社、そして日本赤十字社設立に結びついたものといえるのです。

「文明といい開化といえば,人みな、すぐに法律の完備,または器械の精巧等をもって、これを証すといえども、余は独り赤十字社のかくの如き盛大にいたりしをもって、これが証左となさんとすなり。真正の文明は道徳的行動の進歩と相伴わざるべからず‥」とは、常民の言葉です。

“物質文明”の発展に力を入れていた明治初頭に早くも“精神文化”の必要性を訴え,実践した先駆者の誇りと自負が、この言葉の中に端的にうかがえます。

明治20年(1887年)5月、日本赤十字社初代社長に就任した佐野常民は同35年10月、日本赤十字社創立25周年記念式典を機会に社長を松方正義に譲り、その後病床に伏し同年12月7日79年の生涯を閉じました。

 

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